2011年10月20日木曜日

スコラ的?

何週間か前ですが、「午前10時の映画祭」のおかげで『薔薇の名前』をずいぶん久しぶりに観ることができたのです。この映画、大好きでねえ。
劇中、法王庁とフランシスコ会がディベートをする場面がある。なかなかに緊張をはらんだ場面でフランシスコ会の人が表情をこわばらせながら討論テーマを切り出すのね。いわく「イエス(キリスト)の着物はイエスの所有物であるか?」
暗い映画館の中で思わず失笑してしまいました。 しょーもな~。
 いやいや、全然しょーもないことなかったのですねえ。実はこれ、大変重いテーマだったようで、問題は教会が財産を保有することを認めるかどうか、つまり当時(13世紀北イタリアでのお話)の法王庁のあり方を巡るめっさシビアな対立点だったのです。ひとりアハハと笑った我が身の不明を思いっきり恥じております。スコラ的、というとなにやら重箱の隅つついて現実から遊離したしょもない議論みたいなイメージがありますけど、当事者はそれなりに現実と切り結んで真剣な議論をしておったんだろうなあ、と認識を改めておる次第であります。
んで、これから蕎麦の話になるのですが、
『そばもん』(山本おさむ、小学館ビッグコミック連載)のコミックスを店においているのです。これ読みながらウチの蕎麦食べるお客さんも結構いはるわけですが。この漫画、監修が江戸蕎麦の大家、藤村和夫氏で、伝統的な江戸蕎麦の立場から描かれている。いろいろと泣かせる話もあって好きな漫画なんですが、蕎麦打ちの技法に関する話になるとちと攻撃的な感じが読み取れます。
「水回し」(蕎麦粉に水分を行きわたらせる工程)の際、水は一度に入れてはならず粉の様子を観て段階的に逐次的に加える(加水する)べきである、ということが再三強調されている。これはつまり、水を一度に加える(一気加水)というやり方が一方にあって、それを否定しているわけなのでありますね。んで、何を隠そうワタクシが教わったのが 『そばもん』が否定している「一気加水」のやり方。一茶庵創業者、「蕎聖」友蕎子片倉康雄が創始した方法であります。
片倉康雄は大正期に脱サラ(というか、全く違う畑から転業)してそば屋始めた人で、後に手打ちそば教室を開いて手打ちそば技術の普及に不朽の功績を築いた人。漫画の中では「黒田周蔵」という名前の人物として挙げられています。もともとのそば屋出身ではないだけに老舗そば屋の藤村さんとしては色々思うところがあるんだろうなあ、と推察されるのですね。
さて、「一気加水か、段階加水か」。これなんか、はたから見たらホントにスコラ的論争に見えるかも知れんなあ、と思うのであります。

で、ワタクシ。習ったのは一気加水、しかし漫画や藤村氏の著作を見ると段階加水、対立する二つの情報の間でちょっと自信がなかったのですね。 まあ、一気加水でちゃんと繋がって蕎麦になってるし、何にも問題ないやン、と言われればそうなんですが、やっぱり「なぜこの方法でやるのか」が納得できてないと不安なのですよね。ということでamazonで購入しました『片倉康雄 手打ちそばの技術』。聖徳太子の肖像が一枚飛ぶ高価本ですが、めっぽう面白い。
う~んなるほど。よく解りました。そういう理論的根拠のもとに一気加水なのね。

そゆわけで、理論武装しちゃいました。なるほど肝は計量の方法なんだねえ。
学びて時にこれを習う、また楽しからずや。まあ、はた目にはスコラ的に見えるのでしょうけど。

んじゃまた
亭主敬白


2011年10月5日水曜日

新そばの季節

衣替えと時を同じくして、10月1日より本年の新そばに切り替わりました。
まあ、玄ソバの保管状況が良ければとりたてて新そばがどうこうと騒ぐ必要はないのでありましょうが、そんでもやはり、季節の移ろいをそば屋的に感じさせてくれる最大のイベントが新そばの打ち始め。
当店、何とか一年サバイバルしたなあ、と感慨深く打たせていただきました。
おそらくは人類史に残るであろう2011年という年、その年の新そばです。
3.11以後を振り返り胸ふたがれる思いにつつまれつつも、自然の恵みはしみじみと旨いです。
ぜひご賞味いただきたく。

んじゃまた
亭主敬白

p.s
ゴーヤの天ぷら始めました。
そば屋でゴーヤ? 理由は以下の通り。
1,山科旧三条の沖縄料理「海月」さんで飲んだこと(うまかったス!)
2,午前10時の映画祭で西部劇見たこと(「ゴーヤの用心棒」「ゴーヤの7人」)
3,亭主が沖縄出身(※)であること

 ※ 大うそです