2013年4月21日日曜日

蕎麦湯の濃度あるいは粘度について

 いつの頃からか、蕎麦屋では蕎麦を食べ終わったお客様に茹で釜の湯を汲んで「蕎麦湯」として提供する習慣ができていて、まあ、「まともな」蕎麦屋なら蕎麦湯が出てくる、という一種の踏み絵というかバロメーターみたいな役割をも果たしてはいるのですが、ソバのルチンは水溶性なので蕎麦湯を飲むのは栄養的にも理にかなっているそうでワタクシとしてはお客様にどんどん健康になってがんがんソバを食べていただきたいのでそれは願ったりかなったりでもある訳なのですが、まあ、基本的に蕎麦湯はサービスなんですよね。
 元来はね、蕎麦を茹でると釜のお湯が打ち粉で濁ってどろどろになってきて、やがては芯まで火が通らない生煮え蕎麦ができてしまう、それを防ぐために汲みだして新しい水を入れて薄めるんですけど、その汲みだしたのを桶に入れて客席に置いておくとお客さんは勝手に汲んで勝手に飲んでたもんなんだそうな。(藤村和夫氏の著書に依ります。)
 さらに言うと、昔の蕎麦屋(江戸では、でしょうけど)では「お茶」は出さなかったそうな。蕎麦湯を飲んでもらってそれがお茶代わりということで客も店もそれで了解ができていたらしいです。
 つまり、伝統的な昔ながらの蕎麦屋のあり方にこだわる方にはお茶も出さず、汲みだした蕎麦湯を鍋かなんかに入れてお玉で汲んで勝手に飲んでもらうようにした方がミココロにかなうんでしょうねえ。当然、タイミングが悪いと冷めきった蕎麦湯になるわけですが、伝統的な正しさを求める方はそれでご満足なのだろう、と。

 しかし時代は移って、一人ひとりに対して食後を見計らって湯桶に入った蕎麦湯を提供するのがデフォルトになった。となると時間帯によって提供する蕎麦湯の濃度はまちまちになる。開店早々で湯がく蕎麦の数が少ない時間帯では白湯と変わらない濃度の蕎麦湯が出てくるし、立込を過ぎると濃い蕎麦湯になる。これもまあしょうがないことなので、当然おたがいの了解事項だったのですね。

 ただ、ワタクシ自身の好みから言うと、濃い濃いっのんが好きなんですよね。開店早々であろうが閉店間際であろうが、美味しいお蕎麦を食べたらどろりと濃ゆい蕎麦湯で最後を締めたい。それでこそ蕎麦屋での至福の時間のラストシーンに"The end"とか"Fin"の文字が被さるような気がするんですわ。
 これが白湯みたいなんが出てくると、やっぱりちょっと寂しいのでありますね。所詮好みの問題ではありますがね。お店がポリシーとして「蕎麦湯はそおゆうもん、釜から汲んだもんやししゃあないやんけ」と考えて提供してるならそれはそれで考え方のひとつとして理解できますが、個人の好みとしては寂しいのでなんか不全感残ってまうのであります。しょうがないよね?好みの問題なんだから。

 蕎麦湯を提供する側として「自分の好みにあった濃度の蕎麦湯を出したい」と思うとね、正統的な、そば釜から汲みだした蕎麦湯ではどうにも薄すぎるのですね。「釜から汲みだした正しい蕎麦湯」と胸張ってればいいんでしょうけど、オレはもっと濃い方が好きだしこんなんぢゃあ薄すぎて満足できんなあ、というのを出すのも不誠実な気がするんですよね。はてさて。ちょっとしたジレンマであります。
 そんなときに師匠が(師匠んとこも濃ゆい蕎麦湯でして)「ほんとは邪道だけど、美味しいもんだしたいし、料理の一環として『蕎麦湯を作って』いる 」と。あ~なるほど、と深くうなづいたのです。ふっきれたものであります。作ったらいいんだ!

 そゆわけで、そば釜の湯の濃度とは関係なく、お出しする蕎麦湯は比較的濃くどろりとしているのですが、まあ、濃い蕎麦湯だしてる蕎麦屋は当然ながら作ってるんですよね、蕎麦湯を。あんな粘度の高い湯でおそば湯がけるはずあらへんし。
 それが正統かといえば、師匠も言ってたように確かに邪道なんでしょうが、しかし、旨かったらええやん、と思うのですよね、変な材料入れてるわけではないんだし。
 それに、蕎麦湯の扱い方そのものが歴史的には変化して今の「正統的な」形があるわけですから、時代の要請の中で「作る蕎麦湯」が出てきてもそれは必ずしも邪道ではないだろうと思うのですよね。
 てか、蕎麦を語る時、「○○でなければならない」とかの主張多すぎ。まっとうな材料使ってなにがしかの技術を加えて調理して、口に入って旨かったらそれでええやんけ。頭で食うなよ。舌で味わうもんでっせ?多様性を封じてしまったら自己陶酔以外になんにも残らないぢゃないですか。
 てえな論を展開したいわけではないのでした。閑話休題。

 とあるクチコミサイトで、ワタクシの店に対してではないのですが、あるニューウェーブ系のお店の蕎麦湯が濃いのを非難してる人がいてまして。
 まあ、こってりかあっさりか、その辺は個人の好みですから好きにすればいいのですけど、なんかこの人誤解してて、「あんな濃いお湯で蕎麦を湯がいたらあかんやん」ひいては「蕎麦湯が濃いとこの蕎麦はアカン」とゆう趣旨の文章をそのサイトに、つまりネット上に、言い換えれば全世界に向かって公表してるのでありますね。
 わざわざ濃いい蕎麦湯作ってお出ししていわれのない非難をうけるんぢゃあ割にあわんなあ、と思うのは思うんですけど、それよりなにより、正確な知識に基づかない非難、つまりは言いがかりですけど、そおゆうのんをしたり顔で開陳するのは見てて…痛いなあ。

 ワタクシもかつて「目の前でネギを切って出さない」からといって当該クチコミサイトで非難されたのでありますが、まあ、なんか、相手の論理とか思いとかを斟酌せず自分一個人の無根拠な思いこみだけでもって上から目線で公衆の面前(ネット上というのはそおゆうもんですわね)で罵倒することに快感を覚える心理て、どやねん?
 んでおそらくは、店側が反論した場合、そうした事態は予測しないんでしょうな、反論権を行使しただけで不埒な店と認定して、自身の過ちには思い及ばず「お店のために言ってあげたのに」とむくれるんだろうなあ。いや、でも、ぜってー店のことなんか思ってないよね?店のためを思うなら公衆の面前で罵倒せず、店に直接伝えるもんですわ。「店のため」てのは口実で、自己満足ですよね、主要な動機は。
 そうではない、本当に店のためを思っている、というのなら、少なくともその後フォローするなり経過観察にくるもんだしね。
 しょせんは匿名の無責任なご意見だし、歯牙にかけない、というのが正しい対処法なでしょうけど、まあ、ちょっとはきだしておかないと変な誤解を世上に蔓延させかねないかな、と思ったもんで。
 久しぶりにアグレッシブであります。

 御異論ある方は御来店の上、どうぞ亭主に直接お話下さい。(^o^)

 んじゃまた
亭主敬白